バラ・ビチクチ(モンゴル語: Bala、? - 1248年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人官僚の一人。第3代皇帝グユクの側近として知られる。

『元史』などの漢文史料では八剌(bālà)、『集史』などのペルシア語史料ではبلا(balā)と記される。

概要

バラの出自は全く不明であるが、カルピニの旅行記にはチンカイとともに筆頭書記官(protonotarii)であったと記されており、グユク政権の書記長官(ウルグ・ビチクチ)を務めていたようである。

しかし、グユクが即位から僅か2年後の1248年に急死すると、モンゴル帝国では次の帝位を巡ってオゴデイ家とトルイ家の間で対立が起こった。この時、オゴデイ家はグユクの皇后オグルガイミシュを中心としてグユクの甥に当たるシレムンを次期皇帝として推していたが、オゴデイ家派の中心人物として活動した一人がバラ・ビチクチであった。オグルガイミシュは天山ウイグル王国を味方につけるためにバラ・ビチクチをウイグル王サランディ・テギンの下に派遣し、バラ・ビチクチは天山ウイグル領内のムスリムを皆殺しにしてその財産を没収することを認め、その見返りとして没収した財産を軍費に充てて5万の軍隊を招集し「いざというときに援助する(シレムン擁立に協力する)」ことを提案したという。

また、1248年に次期皇帝を決めるクリルタイが開かれるとオグルガイミシュの代弁者としてバラ・ビチクチもこれに参加した。バラ・ビチクチは「昔オゴデイ・カアンが皇孫のシレムンを後継者としていたことは、諸王・百官みなが聴いている。今シレムンがこの場にいるのに、他の者を後継者としようと議するのは何のためか」と訴えたが、トルイ家側は「オゴデイ・カアンの言葉に誰が違おうか。しかし先に議してグユク・カンを立てたのはドレゲネ皇后らであって、これこそオゴデイ・カアンの命(シレムンの擁立)に背いたことに他ならない。今や誰がモンケの擁立を咎められるというのか」と反論し、これにバラ・ビチクチは答えられず、大勢はモンケ擁立に決した。

こうして最終的にモンケが第4代皇帝として即位すると、モンケは即位直後にクーデターを図ったとの罪状によってカダク・チンカイら旧グユク政権の高官たちを処刑し、この時バラも処刑された。

脚注

参考文献

  • C.M.ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史 2』(東洋文庫 128)平凡社、1968年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説―イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年
  • 高田英樹『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年
  • 四日市康博「ジャルグチとビチクチに関する一考察:モンゴル帝国時代の行政官」『史観』147号、2002年
  • 劉迎勝『察合台汗国史研究』上海古籍出版社、2006年
  • ジュヴァイニー『世界征服者史』(Tārīkh-i Jahān-gushāy
    • (校訂本) Muʾassasah-ʾi Intishārāt-i Amīr Kabīr,Tahrīr novīn Tārīkh-i Jahān-gushāy Juvainī , Tihrān 1378 [1999 or 2000]
    • (英訳) John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年

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